家に居る(公衆衛生倫理について読んだという話など)
幸いにして不要不急の用事がほとんどないため、基本的に家に居るけれど、どうしても気持ちが塞いでしまう。椅子に座っている時間が長いので、持病の腰痛もひどいことになっている。腰痛改善につながればと思って近所の公園を散歩したけれど、気付いたらぼーっと池を眺めていた。家に居る時は基本的に本を読んでいる。ただ、あまりにじっとしていると集中力が続かなくなってくる。結局全然ページが進んでいないということになる。
公衆衛生と倫理について気になったので、『現代思想 9月号』に掲載されていた文章も読んだ。
玉手慎太郎「公衆衛生・ヘルスプロモーション・ナッジ ––––健康のユートピアへの道」
筆者によると、公衆衛生の倫理を考えるときの論点は以下のように要約される。
公衆衛生は市民全体の健康を対象とする。しかし介入はあくまで個々人に対してなされる。したがってここに、多数の利益のために少数の自律が犠牲にされてしまう危険性が構造的に存在することになる。*1
たとえば、それこそ「自粛の要請」。これは感染増大を防ぐという観点からは市民全体の健康に寄与することができるかもしれないが、個人の自律は制限されることになってしまう。 もちろん、だから公衆衛生が倫理に反しているということではない。「それに釣り合うだけの倫理的正当化が必要だということ」*2を言っているだけだ。
この記事は、ここから、「ナッジ」と呼ばれる手法の紹介に移る。これは、個人に対する選択肢の提示の仕方を工夫することで、個人の自律を脅かすことなく公衆衛生を向上させようとする試みである。とはいえ、これは主に市民の日常生活における健康増進のために用いられるようで、今のわたしの関心とは少し話題が異なっていた。
最後の節は面白くて、自律を尊重する公衆衛生倫理学のさびしさのようなものが前面にあらわれている。それは、〈個人の自律はそもそも本当にそこまで大事に思われているのか?〉というさびしさだ。
しかしながら、以上のように論じることは、いささか優等生的で現実が見えていないように思われるかもしれないと筆者は自覚する。人々の健康を増進するための諸々の政策について詳細を逐一公開されたところで、私たちはそれをチェックするだろうか? おそらくしない。(……)結局のところ、公衆衛生倫理学がいくら「自律を尊重すべき」だと論じても、人々に自律の行使を擁護する用意がなければ、机上の空論にしかならないのかもしれない。*3
ただしこれは今のコロナ禍には当てはまらないかもしれない。というのも、今回はかなり明確な形で自由が制限されかけているし、それに対する反発もネット上では少なからず目にするからだ。
この記事の最終的な結論は、以下のように誠実なものになっている。
しかし少なくとも筆者は、人類が思想的格闘を通じて実現した「自律」という価値を手放すかどうかに際しては、私たちは可能な限り慎重であるべきではないかと考える(慎重に思考するということそれ自体、心地よいことではないとしても。*4
ジャック・デリダ『死を与える』
ところで、これを読んで思い出したのはデリダが「イサク奉献」について取り上げた『死を与える』という文章だった。
この本自体の説明は面倒なのではしょりますが、デリダがここで論じたのは、二つの倫理がお互いに対立してしまうという事態だった。そしてそれは、普遍的に起こり続けている。わたしたちはいつも、ある価値を守ろうとして別の何かを損なってしまう。つまり、
倫理を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者たちに対しても同じやり方で、同じ瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それら[注:=他者の要求]に応えることができない *5
ということだ。責任や倫理という概念そのものに、他のものの犠牲がつきまとっている。これはどうしようもないのか。
デリダはここで、メルヴィルの『バートルビー 』を引き合いに出す。この作品に登場する代書人のバートルビーは、「そうしないほうがいいのですが」(I would prefer not to)という言葉であらゆる行いを拒否し、最終的には餓死するのだけれど、そんな彼についてデリダはこう語っている。
一般的なことや決定するようなことは何も言わないにもかかわらず、バートルビーは まったく何も言わないわけではない。I would prefer not to は不完全な文に似ている。 つまりそれは留保つきの不完全性に対して開かれており、一時的な留保あるいは蓄えとしての留保を宣告するのだ。*6
バートルビーは、何もしないことで、すべての問題を宙吊りにする。どちらも選ばないことを、ただ希望する。そして、この「そうしないほうがいいのですが」というセリフは、「何も言わず、いかなる知も表明しないにもかかわらず、そのことによって問いただし、語らせ、考えさせる」*7力を持つ。
だから、可能な限り誠実であろうとするために、わたしは、バートルビーであるしかない。それは、玉手記事に立ち返るなら、「可能な限り慎重である」こと、「慎重に思考する」ことともつながってくると思う。
とはいえ、それでもやはり、現状でなんらかの決断を下す必要に迫られている人はいて、自分自身もそうなる場面が存在する。とすると、何もしないほうがいいのですが、なんて言ってる場合ではない。
するとやっぱり、〈問い続けることが唯一の倫理的な道なんだぜ〉みたいな結論は出せないということになる。結論が出せないという結論も出せない。どうしようもない。
まとまらないのでそろそろこの話は終わりにするけれど、このどうしようもなさはおそらく本当にどうしようもないのだと思う。『現代思想』の同じ号には、筒井晴香「トランス排除をめぐる論争のむずかしさ」という、トランスフォビアを取り上げた記事も掲載されていて、この文章の最後はとても心に響いた。
それはとてもむずかしい問題なんです、とわたしは言う。冴えない返答だし、わたしが初手で決然とした態度を示さないこと自体が、もしかすると目の前のひとを傷つける可能性だってあるのだが、それでもそこから始める。始めなければならない。
とてもむずかしい問題です。*8
当然文脈はまったく異なるので、ここで引用するのはかなり不適切なのだけれど。でも、こういう考え方を持っている人は信用できるような気がしている、という感じです。
久保帯人『BLEACH』
全然関係ないけど、無料公開されていた『BLEACH』を、20巻くらいまで読み直した。このあたりまでのブリーチ、強度がある。初めて読んだ小学生の頃を思い出した。
中高時代は破道の詠唱を暗記している友人が何人かいた。特に、「黒棺」がよく詠唱されていたように思う。
アランカル編の途中くらいからキャラクターの多さや複雑さのためにイマイチついていけなくなったけれど、それでも時々挟まる詩みたいなやつのカッコよさに痺れていた。普通にダサいというのは知っています。それを知った上での話!
あと、画面見すぎて頭痛い。