百年の姑息

本と深夜ラジオと音楽が好きですがその他のものごとも好きです。

両方になること|アリ・スミス『両方になる』

アリ・スミス『両方になる』(木原善彦訳、2018年、新潮社)

Ali Smith (2014)  How to Be Both

 

過去か現在か?とジョージが言う。男か女か? 両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。
誰がそう決めたの? どうしてそうでなくちゃいけないの?と母が言う。 *1

 

  二つの相反する出来事が同時に起こることはありえない。だから、男であり同時に女であることや、生きていて同時に死んでいることや、描かれていて同時に描かれていないことはありえない。両方には決してなり得ず、片方でしかいられないことにわたしは苦しむ。

 

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

 

 しかし。それでもこの物語は、"How to Be Both"と題されたこの物語は、さまざまな「両方になる方法」を発見してゆく。たとえば、語ることがその方法の一つとなる。

そうね、ちょっと考えてみて、いい問題じゃないの、と母が言う。
いや、言わない。
母は言わない。
母は言った、だ。
というのも、物事が本当に同時に起こるのなら、この世は一冊の本を読んでいるような感じになるだろうから。*2

 語り手のジョージは文法にうるさくて、 正確な話し方に常にこだわっている。だから彼女は、すでに死んでいる母親の言葉を現在形で描写することが許せない。だって、過去の言葉を現在形で引用するのなら、その言葉は現在であり、かつ、過去であるということになるからだ。

 でも、言葉はそれを許す。過去の出来事を現在形で語ることは意外とありふれていて、実際、ジョージの語る「第一部」はほとんどが現在形で書かれている。ジョージは常に、その出来事が今まさに生じているかのように語る。そして、最後には彼女は未来時制でさえ語り出す。そこではすべてが現在であり過去である。同時に、すべてが現在であり未来である。こうして、語りという行為を通じて、ジョージは「両方になる」。

 この本の語りそのものが「両方に」なっているとも言えるかもしれない。この物語は二つの「第一部」からなっている。15世紀イタリアの画家と、21世紀イギリスの少女。どちらも第一部であるから、決まった前後関係が存在するわけではない*3。ふつうならば「第一部」は二つのパートのどちらかでなければならなかったはずだけれど、そうした制限を積極的に跳ね飛ばしてゆくのがこの作品だ。この本自体が、「両方になる」ことを実践している*4

  

 あるいは。頻出するモチーフが、DNAの二重螺旋だ。並行して続いてゆく二本の線をツイストすることで、二重螺旋が生まれる。アデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれ対応しているから、これらは必ず、両方とも同時にあらわれる。

 こうした知識をわたしが持っているのは、(高校の授業で習ったはずだということは置いておくと)ジョージの友人であるHが試験対策のために作った、とてもキュートでクールな替え歌のおかげだ。 

グアニン、アデニン、チミン、シトシン/スーパーコイルは両方になれる/ポジでも/イエーイ/ネガでも。*5 

AアンドTかGアンドCか/すべてはそのどちらか/長い染色体は二本、コドンの長さは三文字分/私はいつでもあなたが欲しい。 *6

 同時に、ツイストされて絡み合う二本の筋は、そのままこの物語の構造にも対応している。ある画家とある少女の物語は決して交わりえないはずなのだけれど、ツイストされて、螺旋を描くことで、不思議な交錯が発生する。しかしそれらは合流して一つの物語になるわけではない。あくまで二つの物語は同時に、両方とも、あるだけだ*7

 

 それから。画家の章は螺旋状に描かれた文で始まり、同様の終わり方をする。この螺旋が意味しているのはなんだろうか? 生から死へ、あるいは死から生へと向かうその隙間、煉獄は、螺旋を描いているのだろうか。そして、その螺旋の中で画家が告げる挨拶。

新しい骨のすべてよ、こんにちは
すべての老いた者たちよ、こんにちは
ありとあらゆるものたちよ、こんにちは
すべての定めは
作られ
壊されること
その両方 *8

 画家の章に登場するこの一節は、この作品での「螺旋」というモチーフが含む「時間」のイメージを強化する。ぐるぐると廻りながら時は進んでいき、すべてが作られ、壊されてゆく。しかし過去-現在や現在-未来が「必ずどちらかのはず」なんてことはなくて、わたし達は、同時にその両方でありえるような世界を語ることができる。

このEメールを半分くらいまで書いたとき、ジョージは最初の文で、しようという未来系を使ったことに気付いた。まるで未来などというものが存在するかのように。*9

  

 そういえば、二つの「第一部」はともに「p.1」から始まる。つまり、わたしが引用に際して(注で)示したページ番号は、同時に二つのページを示すことになる。とはいえ、そのどちらなのかを明示するのはなんとなく野暮な感じがするので、わたしはこの番号が両方であるような状態を保存しておくことにする。

*1:p.7

*2:pp.9-10

*3:実はこの二つの第一部が並べられる順番は一冊一冊異なるらしい。このギミックについては訳者の木原善彦さんが新潮社クレストブックスのパンフレット(https://www.shinchosha.co.jp/crest/pdf/20th_fair.pdfの34ページから)で書いている。

*4:しかしわたしは同時に二つの文章を読むということはできないので、二つの「第一部」を順番に読まなければならない。そう考えると、あくまでここには「第一部-1」と「第一部-2」があるに過ぎないとも思えてくるけれど……。

*5:p.82

*6:同上

*7:「両方になること」と「一方を他方へと同一化すること」とは全く異なる。それが「両方になる」という言葉のいいところだ。

*8:p.160

*9:p.149