百年の姑息

本と深夜ラジオと音楽が好きですがその他のものごとも好きです。

エイヤー対タイソン

Stephen P. Schwartzによる、A Brief History of Analytic Philosophy: From Russell to Rawls.(2012)を少しづつ読み進めている。

 

エイヤー(エア? エアー?)がマイク・タイソンと会った時のエピソードがけっこう面白い。調べてみるとWikipediaにも載っていて、それなりに有名な話らしい。

ja.wikipedia.org

 

Schwartzによる最後の一言も含めて面白いと思ったので、日本語に訳してみた。

こんな話がある。エイヤーはある時、ニューヨークのまさに上流階級向けのパーティーで、(幸運にも!)マイク・タイソンと対面した。マイク・タイソンは、後に有名になる若いモデル(ナオミ・キャンベル)にハラスメントをしているところだった。エイヤーがタイソンに対してハラスメントを止めるよう要求すると、このボクサーは言った。「おれが誰だか分かってるのか? ヘビー級の世界チャンピオンだぞ。」エイヤーはこう答えた。「ええ、それで私は前のウィカム論理学教授です。われわれはそれぞれの領域で傑出している。理性的な人間らしく話し合いましょう。」こうしてエイヤーとタイソンは会話を始め、ナオミ・キャンベルは抜け出した。

 タイソンだって私の感覚与件から生じた構成物なのだ、という確信がエイヤーに勇気を与えたに違いない。[原注14]

 

[原注14] 彼女の好戦的な武勇伝を鑑みると、ナオミは自分でタイソンに対処できただろうし、エイヤーの介入を必要としてはいなかっただろうという感じがする。*1

 

こんな感じで、著者がちょくちょくユーモアを挟んでくる。哲学系の書き手ってたいていこういうとこで滑ってるんですが、Schwartzさんはけっこうセンスがあるんじゃないだろうか。

 

というわけで、引き続き読みます。

 

A Brief History of Analytic Philosophy: From Russell to Rawls

A Brief History of Analytic Philosophy: From Russell to Rawls

 

 

 

*1:Schwartz, S. P. 2012. A Brief History of Analytic History: From Russell to Rawls. Wiley-Blackwell. p.69.

家に居る(公衆衛生倫理について読んだという話など)

幸いにして不要不急の用事がほとんどないため、基本的に家に居るけれど、どうしても気持ちが塞いでしまう。椅子に座っている時間が長いので、持病の腰痛もひどいことになっている。腰痛改善につながればと思って近所の公園を散歩したけれど、気付いたらぼーっと池を眺めていた。家に居る時は基本的に本を読んでいる。ただ、あまりにじっとしていると集中力が続かなくなってくる。結局全然ページが進んでいないということになる。

公衆衛生と倫理について気になったので、『現代思想 9月号』に掲載されていた文章も読んだ。

 

玉手慎太郎「公衆衛生・ヘルスプロモーション・ナッジ ––––健康のユートピアへの道」

筆者によると、公衆衛生の倫理を考えるときの論点は以下のように要約される。

公衆衛生は市民全体の健康を対象とする。しかし介入はあくまで個々人に対してなされる。したがってここに、多数の利益のために少数の自律が犠牲にされてしまう危険性が構造的に存在することになる。*1

たとえば、それこそ「自粛の要請」。これは感染増大を防ぐという観点からは市民全体の健康に寄与することができるかもしれないが、個人の自律は制限されることになってしまう。 もちろん、だから公衆衛生が倫理に反しているということではない。「それに釣り合うだけの倫理的正当化が必要だということ」*2を言っているだけだ。

 

この記事は、ここから、「ナッジ」と呼ばれる手法の紹介に移る。これは、個人に対する選択肢の提示の仕方を工夫することで、個人の自律を脅かすことなく公衆衛生を向上させようとする試みである。とはいえ、これは主に市民の日常生活における健康増進のために用いられるようで、今のわたしの関心とは少し話題が異なっていた。

 

最後の節は面白くて、自律を尊重する公衆衛生倫理学のさびしさのようなものが前面にあらわれている。それは、〈個人の自律はそもそも本当にそこまで大事に思われているのか?〉というさびしさだ。

しかしながら、以上のように論じることは、いささか優等生的で現実が見えていないように思われるかもしれないと筆者は自覚する。人々の健康を増進するための諸々の政策について詳細を逐一公開されたところで、私たちはそれをチェックするだろうか? おそらくしない。(……)結局のところ、公衆衛生倫理学がいくら「自律を尊重すべき」だと論じても、人々に自律の行使を擁護する用意がなければ、机上の空論にしかならないのかもしれない。*3

 ただしこれは今のコロナ禍には当てはまらないかもしれない。というのも、今回はかなり明確な形で自由が制限されかけているし、それに対する反発もネット上では少なからず目にするからだ。

この記事の最終的な結論は、以下のように誠実なものになっている。

しかし少なくとも筆者は、人類が思想的格闘を通じて実現した「自律」という価値を手放すかどうかに際しては、私たちは可能な限り慎重であるべきではないかと考える(慎重に思考するということそれ自体、心地よいことではないとしても。*4 

 

 

ジャック・デリダ『死を与える』

ところで、これを読んで思い出したのはデリダが「イサク奉献」について取り上げた『死を与える』という文章だった。

この本自体の説明は面倒なのではしょりますが、デリダがここで論じたのは、二つの倫理がお互いに対立してしまうという事態だった。そしてそれは、普遍的に起こり続けている。わたしたちはいつも、ある価値を守ろうとして別の何かを損なってしまう。つまり、

倫理を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者たちに対しても同じやり方で、同じ瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それら[注:=他者の要求]に応えることができない *5

 ということだ。責任や倫理という概念そのものに、他のものの犠牲がつきまとっている。これはどうしようもないのか。

 

デリダはここで、メルヴィルの『バートルビー 』を引き合いに出す。この作品に登場する代書人のバートルビーは、「そうしないほうがいいのですが」(I would prefer not to)という言葉であらゆる行いを拒否し、最終的には餓死するのだけれど、そんな彼についてデリダはこう語っている。

一般的なことや決定するようなことは何も言わないにもかかわらず、バートルビーは まったく何も言わないわけではない。I would prefer not to は不完全な文に似ている。 つまりそれは留保つきの不完全性に対して開かれており、一時的な留保あるいは蓄えとしての留保を宣告するのだ。*6

 バートルビーは、何もしないことで、すべての問題を宙吊りにする。どちらも選ばないことを、ただ希望する。そして、この「そうしないほうがいいのですが」というセリフは、「何も言わず、いかなる知も表明しないにもかかわらず、そのことによって問いただし、語らせ、考えさせる」*7力を持つ。

 

だから、可能な限り誠実であろうとするために、わたしは、バートルビーであるしかない。それは、玉手記事に立ち返るなら、「可能な限り慎重である」こと、「慎重に思考する」ことともつながってくると思う。

 

とはいえ、それでもやはり、現状でなんらかの決断を下す必要に迫られている人はいて、自分自身もそうなる場面が存在する。とすると、何もしないほうがいいのですが、なんて言ってる場合ではない。

するとやっぱり、〈問い続けることが唯一の倫理的な道なんだぜ〉みたいな結論は出せないということになる。結論が出せないという結論も出せない。どうしようもない。

 

まとまらないのでそろそろこの話は終わりにするけれど、このどうしようもなさはおそらく本当にどうしようもないのだと思う。『現代思想』の同じ号には、筒井晴香「トランス排除をめぐる論争のむずかしさ」という、トランスフォビアを取り上げた記事も掲載されていて、この文章の最後はとても心に響いた。

それはとてもむずかしい問題なんです、とわたしは言う。冴えない返答だし、わたしが初手で決然とした態度を示さないこと自体が、もしかすると目の前のひとを傷つける可能性だってあるのだが、それでもそこから始める。始めなければならない。
 とてもむずかしい問題です。*8

当然文脈はまったく異なるので、ここで引用するのはかなり不適切なのだけれど。でも、こういう考え方を持っている人は信用できるような気がしている、という感じです。

 

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

  • 作者:J・デリダ
  • 発売日: 2004/12/09
  • メディア: 文庫
 
書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

 

久保帯人BLEACH

全然関係ないけど、無料公開されていた『BLEACH』を、20巻くらいまで読み直した。このあたりまでのブリーチ、強度がある。初めて読んだ小学生の頃を思い出した。

中高時代は破道の詠唱を暗記している友人が何人かいた。特に、「黒棺」がよく詠唱されていたように思う。

アランカル編の途中くらいからキャラクターの多さや複雑さのためにイマイチついていけなくなったけれど、それでも時々挟まる詩みたいなやつのカッコよさに痺れていた。普通にダサいというのは知っています。それを知った上での話!

 

shonenjumpplus.com

 

あと、画面見すぎて頭痛い。

*1:玉手慎太郎(2019)「公衆衛生・ヘルスプロモーション・ナッジ ––––健康のユートピアへの道」、『現代思想 9月号』(青土社、2019年)、p.162.

*2:同上、p.163.

*3:同上、pp.166-67.

*4:同上、p.167.

*5:ジャック・デリダ『死を与える』廣瀬浩司・林好雄訳、2004年、ちくま学芸文庫pp.142-43.

*6:同上、p.156.

*7:同上、p.158

*8:筒井晴香「トランス排除をめぐる論争のむずかしさ」、『現代思想 9月号』(青土社、2019年)、p.174.

最近読んだ本など

最近の情勢に普通に精神がやられている。インターネットとかあんまり見ない方がいいんじゃないか。ガルシア=マルケスコレラの時代の愛』をなんとなくパラパラと読み返した。

母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした。同種療法を行なっている老人がフロレンティーノ・アリーサの名親になっていたが、トランシト・アリーサは人の囲いものになって以来、何かにつけてその老人に相談を持ちかけていた。老人は病人の症状を見て、びっくりした。まるで重病人のように脈拍が弱く、呼吸は乱れ、冷たい汗をかいていた。診察してみると、熱があるわけでもなければ、どこかが痛むわけでもなかった。ひとつだけはっきりしていたのは早く死にたがっていることだった。本人と母親にあれこれ遠まわしに尋ねていくうちに、恋病の症状がコレラのそれにそっくりだということがわかった。 *1

コレラの時代の愛』は別に文字通りにコレラの話をしているわけではないんですが。

 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 

ハン・ガン『菜食主義者』『ギリシャ語の時間』

 ハン・ガンの小説を少し前にまとめて読んだ。『ギリシャ語の時間』、『すべての、白いものたちの』、『菜食主義者』と読んだ中では『菜食主義者』が一番よかった。

 

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

  • 作者:ハン・ガン
  • 発売日: 2011/06/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

お姉さん、わたしはもう動物じゃないの。
重大な秘密を打ち明けるように、誰もいない病室を見回しながらヨンヘは言った。
ごはんなんて食べなくてもいいの。生きていける。日差しさえあれば。*2

ハン・ガンは、生きているだけで必然的にだれかを/なにかを傷つけてしまうことの苦しさ、虚しさみたいなものを執拗に描いている。自分が動物であるだけでつきまとう苦しみ。

おとなしいが強盛で、父の機嫌をとることができなかったヨンヘは何の抵抗もしなかったが、父の暴力やすべてのことが骨の髄まで身に染みていたのだろう。今になってみれば彼女はわかる。あのとき、長女として行なった自分の従順さは、早熟ではなく卑怯だったことを。*3

 

ギリシャ語の時間』。

それなら私の神は善なるもので、悲しむ神なの。そんなバカみたいな論証に魅力を感じていたら、ある日あなた自身が成立不能だってことになってしまうわよ。*4

自分の言葉がいつも「バカみたいな論証」なのかもしれない。ある日わたし自身が成立不能だってことになってしまいそうだ。

 

ギリシャ語の時間』は『菜食主義者』よりもずっとライトだと思うので、基本的にはこちらの方が人に勧めやすい。というか、『菜食主義者』まで含めて、ハン・ガンの作品は優しい。その優しさが苦しみの原因になることもあるというだけで。

告白するとね……僕がいずれ、どんなものでも本を出すとしたら、ぜひ点字版を作りたいんだ。誰かがそれを指で触りながら一行一行最後まで読んでくれたらうれしい。それって、ほんとうに……なんていうか、実際にその人と接触しているようなものだろ。違うかな?*5

 

ギリシャ語の時間 (韓国文学のオクリモノ)

ギリシャ語の時間 (韓国文学のオクリモノ)

 

 

 

近藤聡乃『A子さんの恋人』6巻

ようやく『A子さんの恋人』の新刊が出た。ずっと待っていたので大変うれしい。 そして期待通りに面白い。というかこの漫画すばらしいので全員読んだ方がいいです。

 

A子さんの恋人 6巻 (ハルタコミックス)

A子さんの恋人 6巻 (ハルタコミックス)

  • 作者:近藤 聡乃
  • 発売日: 2020/03/14
  • メディア: コミック
 

 

 

蛙亭もういっちょ』


【子宮がドォーン】蛙亭のトリセツ作り&特技披露【蛙亭もういっちょ】

 

蛙亭冠番組が始まったらしい。蛙亭は中野さんの声がすごくいいと思う。高い声で抑揚のない喋り方をするのがなんだかおかしい。

この回で一番笑ったのは「男が男を笑わすときの変顔」。こういう顔をする男はいる。というか多分自分もしていると思う。「顔あるある」ネタとしてすごくクオリティが高い気がする。なんなんだろうこの顔。岩倉さんがツッコミを待っている時間もいい。この3秒、最近見たなかで一番いい3秒だった。

出来上がった似顔絵がそんなに似ていないというかコメントに困る感じなのも結果的によかった。

 

 

その他

最近は分析哲学系の文章を主に読んでいて、特に言語における意図と意味に関心がある。というか最終的には芸術作品の意図と意味、それと道徳的な批評に関心があって、その関連で色々と読んでいる。グライスとデイヴィドソンは、それぞれ一編しか読んでいないけれど、コミュニケーションを基盤に意味を語ろうとする点で好みだった。

一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』がいい本だった。かなり幅広く英語圏哲学史を説明してくれる上、タームの解説も丁寧。分析哲学の流れも、倫理学の流れも追いながら進行してゆく良書だと思う。

この本に限らず、分析哲学の文章は人を説得しようという気持ちを感じて読んでいて楽しい。読んでいて楽しい文章を読みたいと思っています。

 

英米哲学史講義 (ちくま学芸文庫)

英米哲学史講義 (ちくま学芸文庫)

 

 

とりあえず、健康に過ごしたいです。皆さんがんばってください。

 

*1:G・ガルシア=マルケスコレラの時代の愛木村榮一訳、新潮社、2006年、pp.96-97.

*2:ハン・ガン『菜食主義者』きむふな訳、CUON、2011年、pp.244-45.

*3:同上、p.251.

*4:ハン・ガン『ギリシャ語の時間』斎藤真理子訳、晶文社、2017年、p.47. 

*5:同上、p.130.

両方になること|アリ・スミス『両方になる』

アリ・スミス『両方になる』(木原善彦訳、2018年、新潮社)

Ali Smith (2014)  How to Be Both

 

過去か現在か?とジョージが言う。男か女か? 両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。
誰がそう決めたの? どうしてそうでなくちゃいけないの?と母が言う。 *1

 

  二つの相反する出来事が同時に起こることはありえない。だから、男であり同時に女であることや、生きていて同時に死んでいることや、描かれていて同時に描かれていないことはありえない。両方には決してなり得ず、片方でしかいられないことにわたしは苦しむ。

 

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

 

 しかし。それでもこの物語は、"How to Be Both"と題されたこの物語は、さまざまな「両方になる方法」を発見してゆく。たとえば、語ることがその方法の一つとなる。

そうね、ちょっと考えてみて、いい問題じゃないの、と母が言う。
いや、言わない。
母は言わない。
母は言った、だ。
というのも、物事が本当に同時に起こるのなら、この世は一冊の本を読んでいるような感じになるだろうから。*2

 語り手のジョージは文法にうるさくて、 正確な話し方に常にこだわっている。だから彼女は、すでに死んでいる母親の言葉を現在形で描写することが許せない。だって、過去の言葉を現在形で引用するのなら、その言葉は現在であり、かつ、過去であるということになるからだ。

 でも、言葉はそれを許す。過去の出来事を現在形で語ることは意外とありふれていて、実際、ジョージの語る「第一部」はほとんどが現在形で書かれている。ジョージは常に、その出来事が今まさに生じているかのように語る。そして、最後には彼女は未来時制でさえ語り出す。そこではすべてが現在であり過去である。同時に、すべてが現在であり未来である。こうして、語りという行為を通じて、ジョージは「両方になる」。

 この本の語りそのものが「両方に」なっているとも言えるかもしれない。この物語は二つの「第一部」からなっている。15世紀イタリアの画家と、21世紀イギリスの少女。どちらも第一部であるから、決まった前後関係が存在するわけではない*3。ふつうならば「第一部」は二つのパートのどちらかでなければならなかったはずだけれど、そうした制限を積極的に跳ね飛ばしてゆくのがこの作品だ。この本自体が、「両方になる」ことを実践している*4

  

 あるいは。頻出するモチーフが、DNAの二重螺旋だ。並行して続いてゆく二本の線をツイストすることで、二重螺旋が生まれる。アデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれ対応しているから、これらは必ず、両方とも同時にあらわれる。

 こうした知識をわたしが持っているのは、(高校の授業で習ったはずだということは置いておくと)ジョージの友人であるHが試験対策のために作った、とてもキュートでクールな替え歌のおかげだ。 

グアニン、アデニン、チミン、シトシン/スーパーコイルは両方になれる/ポジでも/イエーイ/ネガでも。*5 

AアンドTかGアンドCか/すべてはそのどちらか/長い染色体は二本、コドンの長さは三文字分/私はいつでもあなたが欲しい。 *6

 同時に、ツイストされて絡み合う二本の筋は、そのままこの物語の構造にも対応している。ある画家とある少女の物語は決して交わりえないはずなのだけれど、ツイストされて、螺旋を描くことで、不思議な交錯が発生する。しかしそれらは合流して一つの物語になるわけではない。あくまで二つの物語は同時に、両方とも、あるだけだ*7

 

 それから。画家の章は螺旋状に描かれた文で始まり、同様の終わり方をする。この螺旋が意味しているのはなんだろうか? 生から死へ、あるいは死から生へと向かうその隙間、煉獄は、螺旋を描いているのだろうか。そして、その螺旋の中で画家が告げる挨拶。

新しい骨のすべてよ、こんにちは
すべての老いた者たちよ、こんにちは
ありとあらゆるものたちよ、こんにちは
すべての定めは
作られ
壊されること
その両方 *8

 画家の章に登場するこの一節は、この作品での「螺旋」というモチーフが含む「時間」のイメージを強化する。ぐるぐると廻りながら時は進んでいき、すべてが作られ、壊されてゆく。しかし過去-現在や現在-未来が「必ずどちらかのはず」なんてことはなくて、わたし達は、同時にその両方でありえるような世界を語ることができる。

このEメールを半分くらいまで書いたとき、ジョージは最初の文で、しようという未来系を使ったことに気付いた。まるで未来などというものが存在するかのように。*9

  

 そういえば、二つの「第一部」はともに「p.1」から始まる。つまり、わたしが引用に際して(注で)示したページ番号は、同時に二つのページを示すことになる。とはいえ、そのどちらなのかを明示するのはなんとなく野暮な感じがするので、わたしはこの番号が両方であるような状態を保存しておくことにする。

*1:p.7

*2:pp.9-10

*3:実はこの二つの第一部が並べられる順番は一冊一冊異なるらしい。このギミックについては訳者の木原善彦さんが新潮社クレストブックスのパンフレット(https://www.shinchosha.co.jp/crest/pdf/20th_fair.pdfの34ページから)で書いている。

*4:しかしわたしは同時に二つの文章を読むということはできないので、二つの「第一部」を順番に読まなければならない。そう考えると、あくまでここには「第一部-1」と「第一部-2」があるに過ぎないとも思えてくるけれど……。

*5:p.82

*6:同上

*7:「両方になること」と「一方を他方へと同一化すること」とは全く異なる。それが「両方になる」という言葉のいいところだ。

*8:p.160

*9:p.149

アートとストリートについて|「丸の内ストリートギャラリーガイダンス produced by オールナイトニッポン」

「丸の内ストリートギャラリーガイダンス produced by オールナイトニッポン

 丸の内仲通り沿いでは、丸の内ストリートギャラリーと銘打ってパブリックアートの屋外展示が行われている。草間彌生を筆頭に、さまざまな作家による造形作品が設置されているのだけれど、そこで実施されているのが「丸の内ストリートギャラリーガイダンス produced by オールナイトニッポン」だ。これがとっても面白い企画なので紹介したい。

 

ニッポン放送オールナイトニッポン」と東京・丸の内の屋外彫刻展示「丸の内ストリートギャラリー」がコラボレーション。オールナイトニッポン金曜日のパーソナリティ 三四郎オールナイトニッポン0(ZERO)火曜日のパーソナリティCreepy Nuts、水曜日のパーソナリティ佐久間宣行が、彫刻作品の音声ガイダンスを努めます。丸の内仲通りを中心に点在した12作品の台座に設置したQRコードを読み取ると、ここでしか聴けない音声ガイドを聴くことができます。

www.allnightnippon.com

 

 まず面白いのは、丸の内という立地。おハイソで優秀そうな大人たちがオフィスカジュアルみたいなお洋服を着て丸の内ランチと洒落込んでいるその真っ只中に侵入していく、スマホ片手にイヤホンを挿した根暗ラジオリスナー。ラジオを通じてこの小綺麗な通りに投入される異物。そういった構図がすでにこころなしか気持ち良い。

 そしてわたしは勝手に、そんなリスナーたちの姿を、仲通りに設置された作品たちに重ね合わせてしまう。 この作品たちも、(リスナーたちと同様に)元々はこの通りにおいて異物のような存在であった、あるいは、あろうとしていたのではないかと考えてしまうのだ。その意味で根暗ラジオリスナーと作品群の姿は重なる。しかしわたしがあえて「元々は」と言ったのにも訳があって、というのもそれは、現在この作品たちが、ほとんど単にお洒落なエクステリアとして、丸の内の素敵な暮らしを彩ることを強いられているからだ。丸の内の素敵なオフィスライフに華やかな彩りを添えるために骨抜きにされた芸術。少なくともわたしが訪れた日には、丸の内は見事にこの作品たちを吸収していた。こんな言い方はあまりに乱暴かもしれないが。でも、目に優しいオブジェとしてそこに置かれているだけなんて、と悲しくなってしまうのも事実だった。

  わたしが丸の内にたどり着いて、最初に受けた印象は以上のようなものだった。全てを取り込んで小綺麗に完成されてゆくオフィス街という怪物がそこにはいて、その存在はかなり恐ろしく思われた。同時に、三四郎Creepy Nutsと佐久間宣行はこの怪物とどう接していくのか、というのが一つ気になるポイントとなったのである(とはいえ、わたしは単純に彼らのラジオが大好きなので、それはそれとしてエンタメを楽しむのが主眼です)。

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丸の内は小綺麗である

 

 ともかく。実際に作品を見なければ始まらない。 

 現在、この通りには全部で12の作品が設置されている(作品の一覧は公式HPのマップと作品リストを参照してほしい)。つまり、三四郎Creepy Nuts、佐久間宣行は、一組につき四作品のガイダンスをすることになる。個人的には公式HPのマップでリスト化されている作品を一番から順に巡ることを推奨したい。というのも、それぞれのパーソナリティが後続する作品にコメントを寄せる「ライバル」に対してフリを入れていたり、カジュアルな伏線回収があったりと、順番に見てこそ楽しめる仕掛けがいくつか存在するためだ。とはいえ、必ずしもそうした見方が想定されているわけでもないようなので、好きなように楽しむのが良いだろう。

 

  観る(そして聴く)楽しみを削いでしまっても不本意なので、ここでは印象的だったコメンタリーの紹介をしたい。個人的な白眉はCreepy Nutsによる、桑田卓郎『つくしんぼう』へのガイダンスである。 

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桑田卓郎『つくしんぼう』(2018年)

DJ松永(以下D):見た目はこれ前衛的な出で立ちじゃないですか。
R-指定(以下R):うん。そうですね。結構変わった。
D:これにね。伝統的な技法が使われてるなんてね。
R:それはすごいですね。
D:組み合わせがね。すごいですよね。
R:すごいな。
D:ストリートとアート。この繋がり、もうそもそもね。そのものがヒップホップといっても過言ではないですよね。
R:そうなんですよ。やっぱヒップホップっていう文化自体がストリートで生まれる芸術のことを言いますから。ラップでもそうですし、DJも、ダンスも。そしてグラフィティなんていうのはほんまにね。道端で。
D:グラフィティは、道端に。壁とかにこう、スプレーとかでガーって。
R:そうです。しかも、伝統的なね、この、鰄とか、石はぜっていう伝統的な技法を、それを大胆にこう組み合わせてしまう。で、それが、結果、こんな派手な、金のブリンブリン的な感じとかなるのもヒップホップ的ですよね。
D:これもうサンプリングですよ。
R:確かに確かに。
D:ヒップホップの伝統的な作曲方法でサンプリングっていうのがあるんですけれど。それこそ昔のジャズとか。ブルースとかソウル、ファンクを取ってきて。で、それを、今の人が、新しく咀嚼して、全く別のものを生み出すという。 

 Creepy Nutsがまず提示するのは前衛/伝統、ストリート/アートという二つのパラレルな二項対立だ。「ヒップホップ」はそれらの結節点として存在する。彼らにとって、伝統を踏まえた前衛、アートを汲んだストリートこそがヒップホップたりえるのだ。仲通りに置かれる『つくしんぼう』は、第一に「伝統的技法を駆使してつくられた前衛的造形である」という点でヒップホップであり、さらには「アートの文脈から仲通りというストリートへとあらわれた」という点でもヒップホップである、というのが二人の主張である。面白いのは、こうしたやりとりによって、丸の内の小綺麗さが骨抜きにしてしまったこの造形物が息を吹き返すように思われることだ。ハイソな街並みの中に吸収されてしまったこの作品は、「ヒップホップ」という(半分くらいは冗談の)言葉を与えられることで、新しい輝きを放つ。そうした輝きを、「アート」が担うこともできるのだろう。しかし、「アート」がハイソさに吸収され、むしろそうした上流感を演出する仕掛けとして利用されている状況では、「ヒップホップ」の俗っぽさこそが丸の内を撹乱する力を持つことができるような気がするのだ。

 さらに、その実践は、アカデミックな批評ではなく、ヒップホップユニット兼深夜ラジオパーソナリティの「おしゃべり」によって達成される。それが力強い。これは私見ですが(いや全部私見なんですが)、やはりアカデミズムの言葉も完全に上流階級の言葉となっている気がするこのご時世、エンタメの言葉/ポップカルチャーの言葉は、それとはまた違う種類の力を持っていると思いたい。

 

 さて、R-指定はラッパーなので、DJ松永は彼に対して「つくしんぼう」という言葉で韻を踏むよう要求する。その中身を書いてしまうと面白くないのでそれは置いておいて(まあ秀逸です)、ここではその後の、R-指定のパフォーマンスを踏まえたやりとりを引用したい。

D:(韻を)二個隠してきやがったわけですね。
R:これもまたアート。
D:おおおっ!(笑)
R:これだからあの。隠れてた韻が頭の中で暴発する「韻はぜ」ですこれは。韻はぜという大胆な技法を使わせていただきました。
D:(笑)

  R-指定は自身の専門であるヒップホップで勝負するのだけれど、そこに忍ばせた韻を彼は(『つくしんぼう』で用いられる伝統技法である石はぜとかけて)「韻はぜ」と表現する。もちろんこれは冗談なので、こうして語り直すというのは極めて野暮な行為だと思うけれど。すばらしくないですか? 彼は「韻を踏む」ことによってヒップホップを実践しているけれど、さらにその行為の一部を(陶芸用語を引きつつ)「韻はぜ」とパッケージ化する。つまり、ここで行われているのはまさにサンプリングで、「石はぜ」という元ネタを(彼の言葉を借りるならば)「新しく咀嚼して、全く別のものを生み出す」行為だ。何重にもパフォーマティブなヒップホップの実践。際限なき引用。困難の鮮やかな達成からは、彼の天才の片鱗を垣間見ることができる。

  そして、まさにこうした引用こそが、(Creepy Nutsに限らない)この企画の面白さだ。三四郎は私的なエピソードを、佐久間宣行はエンタメを、Creepy Nutsはヒップホップを。丸の内という空間とそこに展示されるアートの鑑賞体験に、彼らはその外部からいろいろなものを引用する。作品と自宅のソファを比べて悦に入る。関係ない(?)漫画を紹介して笑う。韻を踏む。そのようにして、一度は丸の内で骨抜きにされた作品たちを、外部から復活させる。

 

 あるいは。根暗ラジオリスナーたちによる丸の内への侵入をも一つの引用として捉えてしまうのは強引だろうか。あまり訪れそうにない人々を取り込み、他の土地の、文化の文脈を取り込んでいくという引用。他の街による引用を、ラジオが強制する。そういう力をエンタメが持っていてほしいと願ってしまう。

 

 言いたいことはこれくらいですが、面白かった作品とガイダンスをもう少し紹介。

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鹿田淳史『コズミック・アーチ '89』(1989年)

 鹿田淳史『コズミック・アーチ '89』(1989年)。音声ガイダンスは三四郎が担当。相田のノリが愛らしい。作品解説も一応真面目にやるけれど、あまりそれとは関係なく二人でふざけるのが魅力的だ。

 

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金氏徹平『Hard Boiled Daydream』(2018年)

 金氏徹平『Hard Boiled Daydream』(2018年)。音声ガイダンスは佐久間宣行が担当。わたしも大好きなとある漫画について語っていた。

 

 こんなところで。ともあれ、大変楽しい企画であるのは間違い無いので、ぜひ。